無気力かぼちゃ

万年無気力の私

憂鬱なので、「CHAI」のことを考えてみた。~みんな違って、みんな「NEOかわいい」~

 

みんな無条件で「かわいい」のだ。

 

先日InterFMを聴いていたわけですが、

「NEOかわいい」という聞きなれない言葉が飛び込んできました。

 

ゲストはCHAI

「チャイ」といえば、インド式のミルクティーか、同名のシンガーソングライターなら知ってる。

chayさんの、どこか懐かしい感じ?歌謡曲みたいな?メロディーいいですよね。


chay - 運命のアイラブユー(short ver.)

 

でも「chay」じゃなく「CHAI」だって。

なんか最近耳にするけど、顔も曲もしらん。


CHAI『アイム・ミー』Official Music Video

 

いいと思う。うん、いい違和感。

日本なまりの英語がなぜか心地いい。

 

そのあとのトークが「素敵」やった。

 

5/10 (Thu) NEOかわいいCHAI !! | Ready Steady George!!

 

shaula(DJ):「NEOかわいいを知りたいの」

CHAI:「NEOかわいいっていうのは、みんなかわいいってことなの。そもそも『かわいい』というものは存在していたけども、『かわいい』というものは限られていた、範囲が。」

→ 

・「かわいい」が指すものの範囲が狭い。狭いがゆえに「かわいい人」と、「かわいくない人」という概念が生まれる、ということを言いたいようだ。

 

続く

George(DJ):「みんなには『かわいい』ところがあるってことね。」

CHAI:「そう、絶対みんなかわいいから、みんな『NEOかわいい』の。」

George:「それって探せば(みんなかわいい)ってことですか?」

CHAI:「ううん、もう持ってるもの。生まれ持ってきた(もの)。」

 

 

こんな風に考えるようになったのは、

もともとメンバー4人ともコンプレックスが多くて、普段からメンバー同士で褒め合うようにしたからとのこと。みんなかわいいって気づいたし、それって素晴らしいなと思えて。

そこで生まれた「NEOかわいい」。

 

George:「世の中には、何がもっと必要かというと愛情ですよ。自分は物足りないんじゃないか、自分には欠点があるんじゃないかって(思うけど)、みんなそうなのよ(みんなそう思ってるんだよ)。だからそのままでいいのよ。もちろんもっと大きい人間になりたいっていうのは大切なことだけど、自分を必要以上に責める必要がない」

CHAI「そうなの!欠点がいいの!それが個性だから。逆に一番の武器にしちゃえばいいと思う。完璧でない方がいいの。すっごい楽しいと思う」

Geroge:「完璧ではないからと思って、お互い褒め合うようになってからこの『NEOかわいい』に辿り着いたんだよね。だから、コンプレックスを武器にしたってことだよね」

 

 

この「NEOかわいい」、

「愛おしい」「愛くるしい」と

言い換えられるだろうか。「慈愛」ともいえるかも。

 

CHAIさんはメンバーで褒め合った結果、自分が「NEOかわいい」存在であることに気づき、明るくポジティブになった。

褒めるときは

「今日の髪型素敵よ!」とか「決断力あるところがいいね」とか

何か条件・状況(例:素敵な髪形、決断力)がついてくるけど、

そうすることで、

もっと深い次元での自尊心も強まるのかな。

「きみという存在そのものが素晴らしい(かわいい)」ってしょっちゅう

言えないからね。。言うと嘘くさくなるかも。

 

だから「褒める」っていうことは、

何か条件付きで、自分が認められるように聞こえるけど、

「褒め」が積もり積もると「私は私でいいのだ」と思えるようになるのかも。

 

 

 

George:「それって探せば(みんなかわいい)ってことですか?」

CHAI:「ううん、もう持ってるもの。生まれ持ってきた(もの)。」 

 

Georgeさんがそう尋ねることはおかしいことではないと思う。

自分も「みんなかわいい『ところ』あるよね、うんうん。」って思ったから。

でもよくよく考えてみて、

ちょっと違うのかな、って思いました。

「かわいい『ところ』がある」ではなく「みんなかわいい」。

そういうことをCHAIさんは伝えたいのだろうか。

違ってもいい。気づかせてくれたことには変わらないから。

 

 

 

 

George:「どんなバンドになりたい?」

CHAI:「世界第3位になってグラミー賞取りたい。地球の音楽になりたい。

1位は流行があるじゃん、その時の時代の流れがあるじゃん。

3位はずっと愛される、ずっとCHAICHAIを更新し続ける。

2位は1位と戦っちゃう。相手は必要ない。」

 

 

新しいCDのタイトルは「わがまマニア」。

CHAIのいうわがままは、

「我がまま」であり「自己中」ではない。

 

4人の

「我が、まま」を混ぜ合わせ、このバンドはどこに行くのだろう。

 

 

わがまマニア

わがまマニア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「疲れてもがんばれ!」リポビタンJrから脳波測定エクステの着想を得る

今「リポビタンJr」が話題だ。

そのパッケージの

「疲れてもがんばれ!」

が物議を醸している。

 

まず「リポビタンJr」なるものが存在することに驚いた。しかも2000年かららしい。なぜあまり認知されないのだろうと思ったけど、意図的に宣伝を控えていたのではないかと思った。今回のような物議を醸すと予想できたから。子供まで食い物にしやがるという悪いブランドイメージ作るよりは、じわじわと未来の「リポビタンD」購入者開拓していこう、みたいな。(素人的考察です)

で、ネットのおかげで、たちまち話題になった「リポビタンJr」。

「羨ましい、子供だったら飲みたかった」という好意的意見(?)と、

「疲れたら休ませろ」「日本の世相を反映してるね・・」という批判が出ている。

 

「疲れ」とどう付き合うかって一生向き合う問題な気がする、大げさに言うと。

小さいころは勝手に遊んで、疲れて、気づいたら寝てて、また元気になる、みたいに自分勝手にふるまえた。でもそういった時期を過ぎると期限があったり、協働者がいたりしてそうもいかない。「疲れ」を感じながらもやらなければいけないことが色々とあるだろう。

自分は「疲れても、眠くなっても、そこからあと5分、あと1ページ頑張れる努力を積み重ねよ」という考え方を教わった。(勉強が嫌いじゃなった時はこの考え方を採用するまでもなかったが。)なので、「疲れてもがんばれ!」というコピーにもそんなにアレルギー反応を起こさなかった。

スポーツや筋トレなんかは分かりやすいけど、疲れを感じてから踏ん張れるかどうかというのは大事だと思う。

でもさ、ちゃんと休まなきゃいけないときもある。心身共にくたびれて病気になったら、事故を起こしたら元も子もない。

人間ってめんどうだ。状態を客観視できないから。クルマなら「タイヤの溝浅いから交換しましょう」「オイルが足りないから足しましょう」「ガソリンなくなりそうなので、スタンドによりましょう」という様に、状態が分かって適切な対処がしやすい。

人間はどうだ。疲れを客観的なデータで示すのが難しい。体力も違う、性格も違う、精神状態も違う。「疲れてもがんばれ!」というコピーが、発奮材料にもなれば自殺のトリガーにもなる。マスに対してメッセージを発信するって怖い。言葉って怖い。人類史上最強の武器だ。

 

((あ、常に脳波を測れればいいのかな。

「○○波の波形がこうなっているから、休みましょう」とか言ってくれる端末だれか作ってよ。頭に常にたくさんセンサーつけてもいいけどさ。センサー付きエクステとか作ればいいのか!!!))

 

やっぱり自分の事は自分で判断できるようになることが大事なんだなと。

「これが健康に良い」とか「こういう生活がいい」とか色々と情報あふれているし、

「休みたい?甘えるな!」と言われ最終的に精神疾患にかかったり、「自分に素直になろう」という主張のうわべだけくみ取って堕落した生活したり、と人の意見に左右されることもある。

 

「いま自分頑張り時だな」とか「自分は今休んでいい」とか判断できる、GOサインを出せるようになりたい。

それには信念というか、自分への自信とかそういうものが必要。ああああ。難しい。

 

やっぱり脳波測定エクステだれか作って。

 

 

「貧困バッシング」バッシング

貧困を訴える女子高校生を取り上げたNHKニュースが炎上した。

ネット住民により色んなことが炙り出され、「貧困じゃないじゃん」と突っ込まれている。

自分もたまたまこのニュースをリアルタイムで見ていたが、以前「子供の貧困」に関して調べていたために、関心を持ってみていた。苦しい中でも明るく振舞い、状況をより多くの人に知ってもらおうと行動していることに、すごいなと思ったものだ。

 

真偽のほどは分からないが

・ニュースで映っていた画材道具は定価で2万円

・コンサートに行った、ちょい高めのランチを食べてた、同じ映画を何回も見ていた

・使っている携帯はソフトバンクiPhone

ということがtwitterで分かったとか。

 

(怖いなと思ったことその1

鍵をかけて公開制限していても漏れる可能性があるということ。

たぶん、面白がって同窓生かなんかがさらしたのかな。)

 

そしてこの「貧困バッシング」に対して疑問を呈する記事も読んだ。

すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ〜「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう〜の巻 - 雨宮処凛

 

貧しいという理由で

映画を観るなど、文化的な活動をしていたり、趣味に興じていたり、食べたり飲んだりして英気を養う権利ははく奪できるものではないと。

「お前より大変な人がいるのだ、甘えるんじゃない」という「犠牲の累進性」が

まわりまわって貧困バッシングする人の首を絞めると。

 

正直言って、筆者も炎上していることを知った時は、「批判にも一理あるな」と思ってしまった。「NHKも落ちぶれたか」と思った。

上記の記事を読むことで少し中立的になれた。

と同時に「難しいな」と思った。

極端な話、今回の女子高校生の親が1000万円の車を買って、維持費やローンが大変で、子供の学費払えないわー

という状況なら、「貧困バッシング」は容認されそう。

じゃあその線引きはどこにあるのか?どれくらいの財の所有なら許されるのか。(車を例にするなら)300万円のミニバン?100万円の軽自動車?10万円のポンコツの車?そもそも車の所有が言語道断?

 

今回のニュースで取り上げられたご家庭を(限られた情報だけ知っているうえで)批判的に見れば、

「映画何回も行かなくたって、レンタルすりゃいいじゃん」「格安SIM使えよ」「お金の使い方直さないとどうせ将来困るよ」

というように節約努力不足を指摘できよう(余計なお世話だと思うが)(もしかしたら、子供には良い思いをさせようと思って、親御さんは身を削って節約されているのかもしれない。)

 

どこまで努力すれば助けてもらうことを許してもらえるのか

どれだけ苦しければ助けてもらっても良いのか。

 

 

国家予算とかそのほか資源には限りがあるから、行政による支援の対象を絞ることは必要であろう。

でも個人レベルでそんなことしてはならないんだなと思う。

個人レベルというか、当事者の状況を知りもしないで叩くのはナンセンスなのではないか。

人はみんな違う。物事に対する捉え方、置かれている状況、個人の能力(アマルティア・センの言葉を借りれば「ファンクショニング」「ケイパビリティ」かな)。一般化などできない。

 

 

誰かが困っていたら、身近の人が冷静に3つの視点(客観的な視点、主観的な視点、そして困っている人の視点)を併せ持って、慈悲深く接していく世の中になってほしいなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

速すぎる世界

11月だ。ハロウィーンが終って、デパートとかは早くもクリスマスの装いになろうとしているのではないだろうか。

「クリスマスソング、テンション上がる!」

って言って定番ソングを友人が歌い始める。

ジングルベルとか、サンタが街にやってきたとか、ラストクリスマスとか。

横で聞いていてざわざわしてきた。

別にクリスマスに予定がないからとか、彼氏彼女がいないとかそういうものとは違うざわざわ。

これ、なんだろう。

恐らく自分の脳内では

「クリスマス⇒年の終わりが近いね⇒今年終わっちゃう⇒どうしよ」

ってなって焦燥感を抱いているからざわざわしてきたのだろう。

 

焦燥感にかられる要因は色々あるけど、季節ごとのイベントもその一つであろう。

入学とか卒業とかお正月とか七五三とか。

そして現代は一つ一つのイベントをできるだけ早く意識させようとする。

コンビニのクリスマスケーキとおせち料理の予約受付チラシ。

夏ごろから放映されているランドセルのCM。

 

誰が得するんだ。

ライバル企業より先に手を打ちたいから?

そんなにせかすなよ、おい!

クリスマス商品は12月より前に売るな!

って思って、ちょっと待てよ。

別に焦燥感に駆られている人ばかりではないだろう。

「もういくつ寝ると・・・」っと指折り数えてうきうきしている人もいるだろう。

指折り数えて「今」をないがしろにしているなら問題だが、焦燥感にかられるのも、友人や企業の行動のせいとかではなくて、自分が「今」という時を生きられていないから、ここまでの日々に不満があるからなんだと気づく。

 

小さい時みたいに、ウキウキと若しくはゆったりとクリスマスを、お正月を迎えられるように頑張っていきたい。