貧困を訴える女子高校生を取り上げたNHKニュースが炎上した。
ネット住民により色んなことが炙り出され、「貧困じゃないじゃん」と突っ込まれている。
自分もたまたまこのニュースをリアルタイムで見ていたが、以前「子供の貧困」に関して調べていたために、関心を持ってみていた。苦しい中でも明るく振舞い、状況をより多くの人に知ってもらおうと行動していることに、すごいなと思ったものだ。
真偽のほどは分からないが
・ニュースで映っていた画材道具は定価で2万円
・コンサートに行った、ちょい高めのランチを食べてた、同じ映画を何回も見ていた
ということがtwitterで分かったとか。
(怖いなと思ったことその1
鍵をかけて公開制限していても漏れる可能性があるということ。
たぶん、面白がって同窓生かなんかがさらしたのかな。)
そしてこの「貧困バッシング」に対して疑問を呈する記事も読んだ。
すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ〜「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう〜の巻 - 雨宮処凛
貧しいという理由で
映画を観るなど、文化的な活動をしていたり、趣味に興じていたり、食べたり飲んだりして英気を養う権利ははく奪できるものではないと。
「お前より大変な人がいるのだ、甘えるんじゃない」という「犠牲の累進性」が
まわりまわって貧困バッシングする人の首を絞めると。
正直言って、筆者も炎上していることを知った時は、「批判にも一理あるな」と思ってしまった。「NHKも落ちぶれたか」と思った。
上記の記事を読むことで少し中立的になれた。
と同時に「難しいな」と思った。
極端な話、今回の女子高校生の親が1000万円の車を買って、維持費やローンが大変で、子供の学費払えないわー
という状況なら、「貧困バッシング」は容認されそう。
じゃあその線引きはどこにあるのか?どれくらいの財の所有なら許されるのか。(車を例にするなら)300万円のミニバン?100万円の軽自動車?10万円のポンコツの車?そもそも車の所有が言語道断?
今回のニュースで取り上げられたご家庭を(限られた情報だけ知っているうえで)批判的に見れば、
「映画何回も行かなくたって、レンタルすりゃいいじゃん」「格安SIM使えよ」「お金の使い方直さないとどうせ将来困るよ」
というように節約努力不足を指摘できよう(余計なお世話だと思うが)(もしかしたら、子供には良い思いをさせようと思って、親御さんは身を削って節約されているのかもしれない。)
どこまで努力すれば助けてもらうことを許してもらえるのか
どれだけ苦しければ助けてもらっても良いのか。
国家予算とかそのほか資源には限りがあるから、行政による支援の対象を絞ることは必要であろう。
でも個人レベルでそんなことしてはならないんだなと思う。
個人レベルというか、当事者の状況を知りもしないで叩くのはナンセンスなのではないか。
人はみんな違う。物事に対する捉え方、置かれている状況、個人の能力(アマルティア・センの言葉を借りれば「ファンクショニング」「ケイパビリティ」かな)。一般化などできない。
誰かが困っていたら、身近の人が冷静に3つの視点(客観的な視点、主観的な視点、そして困っている人の視点)を併せ持って、慈悲深く接していく世の中になってほしいなと思う。